[4]勝手に歴史的な推理をします

わたしについて

わたくしとして強調したいのは、この第二の要素について、となります。

声楽と言えば、その一番の代表格がオペラ上演だと思いますが、そのオペラ上演って、ヨーロッパなどにある石造りの舞台での上演が大昔は一般的だったのではないかと想像しております。

いわゆる演奏ホール(イタリアにあるスカラ座とか)などの大劇場を建築するためには、大規模な構造物を建設するために耐力のある現代的な建材の開発が望まれていたわけですから、いずれにしても、それほどの昔ではないと思っています。

その代わりに、石材を反響板とした野外劇場であれば、未だ数世紀前であったとしても建設可能な状況だったことでしょう。

それにも増して、音声の増幅装置の発展については、わたしは専門ですので間違いはないと思っていますが、少なくとも電気的な増幅装置であるトランジスタが開発されたのは、第二次世界大戦後のことでした。

また、近距離無線通信装置や携帯用電源(二次電池)についても、同様に第二次世界大戦後であることは明白です。

さて、なぜ途中から電子装置や無線通信に関する話が登場したのかといいますと、実は、現代のオペラ上演とは、専用劇場での上演であっても、各声楽家(オペラ役者)には極小のマイクと無線装置が衣装に取り付けられており、それがホールのスピーカーなどから、オーケストラの演奏にかき消されない程度に増幅して歌声を流しているのだ、ということだと聞いております。

つまり、程度の差こそあれ、要するにカラオケ装置を用いて歌っているような状況なわけです。

もう、申し上げたいことが薄っすらとご理解いただけてきたかもしれませんが、上記で例示した、第二の理由におけるスポーツと比較して、真実、どうなんでしょうか、ということになります。

もちろん、薬物による筋肉等改造はあまり褒められたものではないとは思います(競技前の検査で失格になることもありますよね)が、でも、未だ、一般的に健常者が出場するスポーツ競技会で電動用具による補助による試合なんて、基本的になされていないですよね??

このため、スポーツ選手は大昔からの通り生身の肉体を駆使して一心不乱に競技に取り組んでいるわけなのだろうと思っています。

そういった一心不乱な姿に、仮に自分はその競技に取り組んだ経験値がなかったとしても、人々は感動するものなのではないでしょうか・・・。

もしも、そういった要素が否定されてしまうと、自分が手掛けている事物(ここでの例示はスポーツとなりますが)に対する経験を持っていない人でなければ、感動を味わうことができない(してはならない)・・・、なぜならば、その事物を通じて人々を感嘆させられるぐらいの上出来さは、その事物について真剣に取り組んだとか、その事物に関する詳細な事情を詳しく把握している方以外は、感動を得られないからだ、ということになります。

が、実際には、自分はやったことのないスポーツであっても、その選手の競技を行っている一心不乱な姿には心打たれる時もあるでしょう(むしろ、それが観客としては普通だと思います)。

でも、それが電動用具で仮装された競技(と、あえて言いますが・・・)だったとしたら、どう思いますか・・・?、その競技を観戦して感動なんかしますか??

★[5]感動とはに続きます。

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