[9]わたくしの目指す発声法

わたしについて

長い年月を要して、ようやく、わたしのイメージする指導法を体現してくださっている声楽家の先生(永田孝志先生)に出会うことができました。

これを振り返った時、前節では巷の声楽家の先生の指導法について不満を述べたかのような文章を書いてしまっておりますが、実は、こういった経験があったからこそ、今の声楽家の先生の存在の有難みを本当に理解することができたのだと思っています。

さて、わたくしの目指す発声法とは、すなわち「肉声だけで他の楽器と共演しても音源として劣らない100年前に興隆した発声法を体現してみたい」ということになります。

これは正直大変です・・・。

本当に歌って、アスリートなんです。

酒を飲んだ後の二次会で酔っ払って歌うようなものではありません。

その代わり、スポーツ選手と同じく、一心不乱に歌いますので(一心不乱といっても、とりみだすということではもちろんなくて、特に発声観点に神経を集中して歌います、という意味です・・・そうしないと、音域にもよりますが、楽音としての声が破綻しますので・・・)、そういった意味でのなにがしか(非言語部分で)の感動を共有できる可能性はあります(控えめに書きましたが、強いとは思います)。

またそれ以外の要素としては、すべての感情(喜び、悲しみ、嬉しさ、辛さ、などなど)を究極的に圧縮して発声しますので、そのいろいろな感情の混ざった音声を聞くことにより、どれかの感情が琴線に触れる可能性があります。

その琴線の触れ方としては、楽曲の内容(歌詞はもちろんのこと、短調長調の相違も含めて)に必ずしも一致しない(楽しい曲だから楽しさを感じる、ロックでいればバラード的な位置づけの曲だからしんみりする・・・といった、楽曲と典型的な声楽演奏法による演奏上の色付けから招来する価値観の押し付けは行わない)、という点が特長かなとは思っております。

そうなりますと、一見して、常に一本調子のような音声にも聞こえる可能性はあるかもしれませんが、考えてみれば、声色で楽曲の表現(特に歌詞に見合ったような声色)をするのって、これこそ、ちょっと表現の押し付けのようにも考えられるとは思います。

絵画について深い造詣があるわけではありませんが、例えば、絵画を鑑賞する際に、その絵画を見た受け止めようは人それぞれなのではないでしょうか?というのが、ここで申し上げたいことです。

もちろん、絵画の作者がその場にいて、何かコメントしてくださるスタイルの展示もあるのかもしれませんが、それにしたって、「ほら、楽しい絵でしょう、楽しくなりませんか?」などとは案内しませんよね??

あくまで、「この絵は、○○を題材に、こういったことを念頭に置いて描いてみました」というような解説はされるかもしれませんが・・・。

それがなぜ、声楽演奏の場合、極端に「楽しい歌は楽しいように歌って聞かせ、悲しい曲は悲しくなるように歌う」という方向性になるのですかね。

もちろん、全く逆を演出しないのか?といった、斜め上の話はしておりません。

ただただ単純に、発声法に従って、様々な感情に基づいて発声をして、その演奏した音声を聴衆が聞いて、それを聞いた方が、その方の想いと共鳴する形で琴線に触れる・・・というのが、正常なのではないか・・・と、わたくしは考えております。

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